「地域の穏やかな暮らしを守るため」――看護師というキャリアを捨て見つけた、『農家』としての生き方。
2021年、青森県三戸町の認定新規就農者として農業を始めた豊瀬愛実さん。看護師として約10年の経験を積んだうえでの転身だ。中山間地域の畑で、一般家庭の冷蔵庫にある野菜のほとんどを作っている。ただし、豊瀬さんが農家になったのは、別に農業がしたかったからではない。人口約8,400人の町で見つけた、”みんなの穏やかな生活を守る”農家としての生き方を聞いた。
10ヶ所の畑であまたの野菜を作る

豊瀬さんが農業を営む青森県三戸町は、秋田県および岩手県の県境にある。畑は三戸町のなかでも山奥にあり、クマやイノシシと顔馴染みと言っても過言ではない。平坦な土地が少ない中山間地域で豊瀬さんが管理する畑の総面積は、約1.2ヘクタール。10ヶ所に点在しているため、移動には車が必須だ。
扱う野菜の種類は多く、一般家庭で食べられている野菜のほぼすべてを網羅している。イチ押しを尋ねると甲乙つけ難い様子。少し考えた後、キャベツとタマネギと答えてくれた。
「新鮮なキャベツが手に入りにくい時期にも提供できるのが強みです。キャベツの収穫時期は5月の半ばから11月まで。お盆の時期は暑さや虫の影響を懸念して扱わない農家が多いからこそ、出荷できるように工夫しています」
「ありがたいことに、タマネギは味で評価してくださるお客さんがいて。『お前のタマネギ食べたら、もうほかのは食べられないわ』なんて言ってもらいました」
育てた野菜の多くは農協に出荷するが、町内にある2ヶ所の直売所でも販売している。農家の朝は早く、直売所に出す野菜の収穫は朝4時。袋詰めを6時半までに終わらせる。7時頃に朝食を5分でサッと済ませたら、車に野菜を積んで各直売所へ。9時半までに帰宅して畑仕事を始める毎日だ。

元看護師の豊瀬さんが農業を始めたのは約5年前。農家の生まれでありながら、もともと家業を継ぐつもりはなかった。
「絶対にやるものかって思っていました。昔は手伝いもしたくなくて。山に生まれたのに変なプライドがあったんです」
両親も家業の存続にこだわっておらず、豊瀬さんと妹のどちらにも継いでほしいと言ったことはない。豊瀬さんが看護師を志したのは、曽祖母の介護を手伝ったり父が病気になったりした経験からだ。
高校卒業後、三戸町と隣接する岩手県二戸市の看護学校で学び、看護師資格を取得した。病気や怪我をした人が元気になっていく姿を支えたいとの思いから、岩手県内にあるリハビリ専門の病院に就職。約5年間の勤務のなかでは、注射するよりも杖を持って患者と一緒に歩く時間のほうが長かった。
その後、看護師の資格を活かして治験を支援する会社に転職したものの、パワハラに悩んで半年で退職へ。当時は岩手県盛岡市で暮らしていたが、同じ場所に住み続けるのが苦痛になるくらい落ち込み、地元に戻ってきた。
しかし、豊瀬さんはそれで農家になったわけではない。
「地域でどう生きるか?」という葛藤を超えて

田舎町では働き口が限られているものの、看護師の需要は高く、三戸町に戻ってきた豊瀬さんは看護師として介護老人保健施設(老健)で働き始めた。
生まれ育った場所で生活するようになり、地域の人と関わる機会も再び増えた。そのなかで、心のなかにある葛藤を抱えるようになったという。
「小さな町なので、子どもの頃からいつも地域の人が声をかけてくれました。当たり前ですが、その人たちは着実に歳をとっています。手助けが必要な場面が増えているのに、私はただ地域に存在するだけで何もできません。その状況に悶々としていたんです」
看護師として働く時間は、目の前の相手をサポートできる。しかし、勤め先で忙しく働いているからこそ、自分の身近な人を支えられる時間は少ない。
転機が訪れたのは、老健で働き始めて数年が経ったある日。母が腰椎圧迫骨折で2週間の安静を余儀なくされた。原因は、農作業中に重いものを持ったこと。容態が心配な一方で、母が動けないと畑仕事が滞るという問題がある。ちょうどニンニク掘りとプラムの収穫に追われる時期だった。
ほとんど家業を手伝ってこなかった豊瀬さんだが、今回ばかりは話が別。看護師の夜勤明けに寝る間もなく畑作業をこなした。ほとんど寝ていないにもかかわらず、スカッとした気分。自然の力のおかげかもしれない、と豊瀬さんは冗談まじりに笑った。
あんなに毛嫌いしていたのに、実際に農業に取り組んでみると案外楽しいものだと感じたという。農業に対するイメージが変わるなかで、日頃感じていた悩みに対する答えも自ずと出ていた。
「農家になれば、地域の人が必要なときにすぐ手伝いができるんじゃないかって思ったんです。看護師よりも働き方の自由がきくので。地域に生きる人間として、地域に自分を活用してもらうために農家になると決めました」

母の怪我が治り、農作業も落ち着いた冬。豊瀬さんは夜勤明けに役場に立ち寄り、農家になるための具体的な手続きについて相談した。
「いろいろ言われる気がしたから、先に行動してしまおうと思ったんです。家に帰って母に『役場で話を聞いてきた』と伝えたら、『はぁ!?』と驚いていました」
看護師を辞めることに戸惑う母。それに対して父は、人に迷惑をかけないなら好きにすればいいと言った。豊瀬さんは、後継ぎができたらもっと喜ばれるはずだと苦笑い。半ば押し切るようなかたちながらも、両親は豊瀬さんの思いを受け入れてくれた。
人のつながりと穏やかな生活を守る農家へ

父はもともと大工で「仕事は背中で覚えろ」というタイプ。農業の細かいイロハは母から聞いて身につけた。
自然が相手の農業では、すべてが思い通りにいくわけではない。たとえば、昨年の暮れには畑のニンジンをすべてイノシシに食べられた。今年の春は気温や雨の降り方の変化が影響し、白菜の中心が黒くなったという。
要因が何であれ、目の前にある畑一面の野菜が食べられない状態だとわかったときは、農業をしているなかで最もつらい瞬間となる。失敗も経験しながら、体当たりで農業を学んできた。
豊瀬さんは、これまで扱ってこなかった野菜にも積極的に挑戦している。たとえば、看護師時代に研修で訪れた千葉県で食べた茹で落花生の味が忘れられず、昨年、自分の畑で試作した。もともと東北での栽培は難しかったが、温暖化の影響で可能になってきているという。
「実際に食べてみると馴染みやすい食材や品目は意外とあります。積極的に情報を得て挑戦してみるのも、新しく農業を始めた自分の役割です」
最新の情報を得るため、直売所にいる先輩へ声をかけることもある。頑張っているとアピールすれば、親切に教えてくれる人が多い。その場で解決できないと知り合いを紹介してくれる場合も。小さな町だからこそ人と人とのつながりが生まれやすい。
「20代から80代まで幅広い年代の人が農業をしています。私は先輩たちにいろいろ教えてもらってすごく助けられました。先輩たちも、私たちが一生懸命やっている姿を見ると頑張ろうと思うらしくて。いまの環境がありがたいと感じているので、今度は自分が後輩に提供していきたいです」
豊瀬さんは自分自身を「調整役」と表現する。看護師として10年働くことができたのも、目の前の物事を調整する力があったからこそだ。農家の仲間である先輩・後輩をサポートしたいという思いも強い。これからは農業に携わるさまざまな年代の人をつなぎ、よい刺激を与え合える関係を作っていきたいという。
その役割を果たし続けるには、農家として生き残ることが前提だ。豊瀬さんは、今後はさらに経営の規模を大きくし、法人の経営者として農業に取り組むのが目標だと語る。

現在の農家としての収入は、看護師としてバリバリ働いていた頃とあまり変わらない。作業が少ない冬場は看護師の資格を活かして外で働くこともあるが、基本的に農業のみで生計を立てている。
「収入を維持できるよう計画を練ってやっています。農協に出荷すれば収入が入るというシンプルな仕組みがありますが、農家として生き残るにはそれ以外の方法も模索していかないといけません。たとえこの小さな町のなかだけで野菜を売るとしても、ブランディングは大事だと思いますね」
豊瀬さんがともに農業に取り組んでいる父は71歳、母は62歳。両親の引退がそう遠くない未来に控えているからこそ、ときにはAIと壁打ちしながら自身の農業の今後のあり方について試行錯誤しているところだ。
昔は農業と距離を置いていたし、看護師の仕事は嫌で辞めたわけではない。それでも、好きな自分でいられる時間は看護師より農家のほうが多い。
農家としてさらなる高みを目指す豊瀬さんだが、心に抱く思いはあくまでも地域の人に向いている。
「みんなが穏やかさを保ちながら生活し続けるための、ひとつの要因になれたらいいなって」







